台湾→ベトナム→カンボジア→ベトナム→中国→ネパール→タイ→台湾→日本
中国(雲南ルートでチベットをめざす!)
ベトナムのラオカイから徒歩で橋を渡って中国側の雲南河口へ。

ハノイでとれた中国ビザは1か月しかないけれど、河口から紅河を経てゆっくり昆明に出て、大理でビザ延長します。下の写真は雲南少数民族の様子。ベトナムで見られなかったタイ族(タオルを頭に巻いている)がいるのが雲南っぽいでしょう。






大理でビザ延長して、さらに後1か月。新疆経由でチベットをめざすのも、新疆からパキスタン・インドを経てネパールへ入るのも、時間的に余裕がありません。と言いつつ、雲南で一か月のんびりしてましたが。
大理から北上して、雲南ルートで一か月でチベットをめざす方向で決定!前進あるのみ!
バスで大理から麗江、そして虎跳峡を横目で見ながら、徳欽(デチン)へ。
徳欽(デチン)で準備
徳欽は後にシャングリラとして有名になりますが、当時は未開放。同じ宿だった香港人の女の子から「よくここまで来たね」と言われますが、何の!めざすはチベット!。防寒用に中国製ジャンパーを買い、市場で買った肥料用の袋にバックパックを入れて、外国人臭さを消します。カメラも出さず、ここから写真もありません。
滇蔵公路の苦行(徳欽→鹽井)バスと徒歩と拖拉机
外国人とバレない様に徳欽から芒康行きのバスに乗り、バスの窓から梅里雪山を眺めつつ、滇蔵公路を進みます。途中雨とがけ崩れでバスは通れず乗客全員降ろされます。この先、歩けば拖拉机(トラジ・トラクター)が待っているからそれに乗れと言われます。重い荷物を背負って歩く歩く。
がけ崩れの箇所は、地面がブヨブヨで大量の水を含んでいて、本能が危険と言っていますが、みんなが行くので進みます。道を塞いでいる大岩につかまりながらカニ歩きで回り込んているとき、「あ、ここで落ちたら瀾滄江(メコン河)。流れ流れてメコンデルタまで土座衛門かぁ」という思いが頭をよぎりました。がけ崩れを越え、同行の衆はかなり先を行き、道端で休んでいると、「もうすぐ日が暮れるから、途中にある寺に泊めてもらいなさい」とアドバイスを受けます。休み休み歩きますが日も暮れて、月明かりの下、進みます。山側から「ハロ、ハロ」と懐中電灯の明かりをチカチカさせてチベタンが降りてきて、何を運んでいるのか聞かれましたが、(山賊?)怖くて、ひたすら進みます。【後から知ったのですが、このあたりは松茸が採れて、日本に輸出してるとか。松茸の密輸と思われたのか背負っているズダ袋…】
夜中に寺にたどり着き、門を叩きますが、開けてくれません。仕方なく寺の前のベンチみたいなところでシュラフを取り出して横になります(野宿)。空腹と渇きで眠れず、夜が明けてから寺の横の「小売り店」が開くのを待ち、缶入り炭酸飲料「健力宝」を買って飲んで復活。水筒はありますが、入れる「開水」がありません。もう外国人だとバレてもいいやとズダ袋の一部を切り、バックパックの肩ひもを出して背負い、出発。
崖を伝って滴り落ちて来る水も飲みました(上から羊の声が聞こえたような気がしますが、汚染された水でもいいやと飲みます)。歩き歩き、すれ違う人から道の状況を聞きます。ようやく拖拉机(耕運機)がいる場所にたどり着き、後ろの荷物台に立って乗り、ガタガタと進みます。当たり前ですが、歩くより速い。拖拉机(耕運機)を乗り換えたりして、ついに鹽井という小さな街に着きました。食堂で食事して、生き返ります【本当にしみました】。鹽井から(何と!)ミニバスが出ているので、それで芒康へ。
滇蔵公路も以前四川から通った川蔵公路も、雨季は相当難所だと実感しました。
芒康からトラックヒッチ
芒康は少し大きい街で、さてどうしたものかとぶらぶら歩いていると、市場近くでトラックがラサ行きの人を集めています!行くよ行くよと値段交渉すると、チベタンの運ちゃん(助手?)が「翌日出発するから自分で食料を買い込んでおけ」と教えてくれました。で、市場で餅子(ピンズ)と貴重なカップ麺(康師傅)、ペットボトルの「健力宝」(缶には懲りた。当時ミネラルウォーターはまだなかった)を買い込みます。
翌日、他のチベタン乗客(巡礼?)と一緒にトラックの荷台に乗り込み、荷台の底にある材木の上に荷物を置いて、隙間に座り込んで、いざ出発!山を越え、峠を越え、森林検査站(チェックポイント)を通過して、トラックはガタガタ揺れながら、ぜいぜい登ります。山道から眼下に瀾滄江(メコン河)が時々見えます。乗客は暇つぶしに歌を歌います。チベットの歌もありましたが、知っている香港や台湾の歌(台湾で聞いていた孟庭葦とか葉蒨文)は一緒に歌いましたよ!まさかトラックの荷台の上でチベタンと《你看你看月亮的臉》《冬季到台北來看雨》を歌うとは夢にも思いませんでした。で、夜中に左貢あたりで建物(トラック旅社?)に入って一泊。
昌都(チャムド)で「ん?」奇跡の再会
翌日もトラックは走り続けて、チベタンが「チャムド、チャムド」と言っているので、どうやら昌都(チャムド)が近いようですが、街には入らず近郊で乗客は降ろされて、ここで待っていろとのこと。トラックは荷物を載せたまま行っちゃったけど、他のチベタンの荷物も一緒だし、戻ってくるよなぁと、ひたすら待ちます。
数時間後、トラックが戻ってきたので、やれよかったと荷台に乗り込みと、昌都から乗ってきた新たな乗客が座っていました。漢族数人?あれ、何か変な感じがする。一人怪しいヤツがいて見覚えがある。昔、新疆カシュガルで出会った釣り人系旅人(ハナス湖でイトウを釣った)に似ているぞぉ。まさかねぇと思いつつ、オシッコ休憩で隣に行って、放尿しながら「Y野さん?」と小声で呼んでみると、向こうもびっくりしたようで「え?誰?日本人?」って、そっちも日本語やんか。昔カシュガルでいっしょだった「I」ですと名乗ると、思い出したのか、「ええっー、何で?」ってお互い様でしょ!こんな時、こんな場所で奇跡の再会!でも周囲に外国人だとバレないように、その後は会話なし。休憩時に二言三言交わすのみ。
夜、トラック休憩所?で各自食事休憩。薄暗がりの下、ヤカンが回ってきたので、てっきり「開水」だと思い、とっておきのカップ麺「康師傅」に注いだら茶葉が入っていて(バター茶か?)、すごい味、でも暖かい…。Y野さんと会話して情報交換。
最後の難関、那曲(ナチュ)でピンチ
翌日の休憩時に、【チベタンにはこちらは香港人だということにしていたのですが】同乗の漢族おやじが「俺は広西(南寧?)から来たが、こいつらが喋っているのは広東語じゃねーぞ」と運転助手にチクるのを耳にします。もうすぐ那曲(ナチュ)のチェックポイント(一番厳しい関所)なのに、やばい。夜、ビュービュー風が吹く中をトラックは走り続けて、みんな寒さに震えて黙りこんでいるうちに、チェックポイントに到着。懐中電灯が荷台の乗客一人一人に照らされ、やばいと思って乗客の毛布の下に隠れますが、それが何と広西おやじの足元!オワタと思いきや、意外にも上からさらに毛布をかぶせて隠してくれた上にポンポンと叩いて心配するなと合図してくれました。チェックが終わり、トラックは走り出し、顔を出しておやじに感謝します。
着いたよ、ラサ!
那曲(ナチュ)さえ越えれば後はチェックなし。舗装路(!青蔵公路)にもなってトラックは走り続け、無事ラサに到着!
トラックを降りて、以前ラサに来たことがあるというY野さんに連れられて、放心状態で歩いてラサの宿へ。その夜は、食堂で久々の料理!を食べながら、Y野さんと祝杯をあげました。
ラサ観光して、宿(ドミトリー)でたどり着いた人たちと情報交換。パキスタン→新疆(カシュガル・葉城)経由で西チベットからラサにたどり着いたツワモノもいました。高所順応するため、宿でゴロゴロして過ごします。Y野さんは前回ラサまでたどり着いたけれど、高山病でヘリで北京まで運ばれ(保険適用)、再チャレンジで四川方面から昌都(チャムド)に入ったとか。
カメラが…
カメラが壊れた?ずっとトラック荷台の荷物の中だったカメラを取り出すも、動かず。寒さとバッテリー切れ(リチウムイオン電池)?せっかくラサまで来たのに…。ポタラ宮の前で写真屋に撮影してもらいます。

その後、意を決して、カメラを購入。ラサでリコーのカメラ(単三電池)を買いました。そんなわけで、ここから写真あります。


ラサでネパールビザ取得(ネパール領事館だからラサにどうやって入ったかは不問)。よし!と。
中国ビザが残り期限僅かですが、ラサで延長申請しても、どうやってラサに入ったんだとか、すぐにチベットから出てけと言われそうなので、やめときます。ラサより寛大と聞いたので、シガツェで挑戦してみることにして、シガツェに向かいます。
シガツェでビザ延長
ラサからバスでシガツェへ向かいます。(入ればこっちのものチベット。普通にツーリスト移動)


シガツェでビザ延長を申請して、どきどき待つ間、市内やタシルンポ寺を観光。功徳のおかげか、1か月の再延長できました。シガツェ地区の入境許可証ももらったし、いいぞ。










シガツェで人助け
兄弟で来ていた大学生(弟さん)が高山病に。高山病の場合、酸素吸入とブドウ糖注射と聞いていたので、診療所でブドウ糖溶液を買ってきて飲んでみいと試します【注射は血管から直接吸収、飲めば胃腸から吸収。なぜかジャンキー的発想ですね】ダメっぽいので、診療所に酸素ボンベがあったのを思い出し、連れて行って、酸素吸入とブドウ糖の点滴をしてもらいます。一夜明けて小康状態に。ラサからヘリで北京へ搬送か、がんばってネパールまで降りてカトマンドゥの病院へ行くか、という話になったのですが、結局ネパールまで降りることに。


その後いただいた手紙によれば、カトマンドゥでよくなって無事帰国(さらに就職)したそうで、よかったです。
西チベットをめざす(トラックヒッチ)
ビザ延長して時間の余裕もできたし、心強い同行者(Y野さんとT川さん)もできたし、西チベットをめざすことにします。T川さんは西チベットのアリ(阿里)で一冬越したことがある強者。
シガツェから西チベットへのルート2種
●北ルート:雨季でも水が少なくてトラックが通れるので、トラックヒッチで行ける。
●南ルート:雨季には悪路になるので、ランドクルーザー(チャーター)しか通れない。カイラス山へはこのルートのほうが近い。
北ルートで西チベットをめざすことに。私の興味はグゲ王国遺跡。食料を準備して、トラックを探し、何とかアリまで行く中国製「東風」トラックと交渉成立(本当は、いすゞ五十鈴トラックのほうが走りも乗り心地もよい)。乗り込んで出発です。
シガツェから道班【道路補修の人の居住地、番号が振ってあり、西チベットでは重要な路程ポイント】で休んだり、野宿したりして、道なき道を以前通った車の轍を追う感じでトラックは走ります。幌付きの荷台の中は土埃でボーボー(顔を布で覆って防ぎます)。寒い寒い野宿明けはエンジンが冷えてかからず、バーナーで焼いているのを見ました。途中、温泉が湧いている水溜まり群があり、足湯休憩。約1週間かけて、拉孜(ラツェ)、桑桑(サンサン)、措勤(ツォチェン)、改則(ゲルツェ)、革吉(ゲギェ)を通って、噶尔(ガル・獅泉河・阿里)に到着。














アリ(阿里)地区到着
噶尔(ガル・獅泉河・阿里)はアリ地区の中心都市。シガツェから来た北ルート、新疆葉城からの新疆ルート、シガツェからカイラス山を経て至る南ルート、これらが合流する重要地点。しばし休息の日々を送り、体を拭いて髪を洗い、洗濯して土埃を落とし、食堂で料理!を食べます。私が行きたいのはグゲ王国遺跡のある札達(ツァンダ)。公安【ここはすごく親切。いい人。】で札達(ツァンダ)・カイラス方面への入境許可証を発行してもらいます。そして、南に向かうトラックを探します。
札達(ツァンダ)へ向かう
何とかトラックを見つけて交渉成立。途中、数泊して手紙や荷物を届けたり載せたり。ひょっとして、これ郵車(郵便トラック)?運ちゃんが友人を訪問するとかで、まる一日その村で待たされたこともありました。人通りのない村を散策し、川向こうの崖に横穴がいっぱい見えるので【壁画とかあるんじゃないかと期待】、靴を脱いで歩いて石ゴロゴロの川を渡り(水が冷たい)見に行ったりしました。穴の中は割と広くて、空気が「むぉん」と暖かく、羊飼いが寝泊まりするところなのか?





結局、何の穴なのかわかりませんでしたが、登ったついでに景色を写真に収めました。
西南チベット、トラック旅行、観光名所でもない村での暇な一日の過ごし方にしては、まあまあかな。
札達(ツァンダ)から徒歩でグゲ王国遺跡へ
ようやく札達(ツァンダ)に着きました。宿では「ツアーじゃないのに何で来たんだ」とか、「車でないとグゲ王国遺跡まで行けないぞ」とか、「ツアー代払えば車を出してやるが、払わなければ宿泊させない」とか、さんざんに言われて、いやな雰囲気に。街はずれでヒッチを試みますが、車なし。ここまで来たのに…というわけで、同行のY野さんとバックパックを背負って徒歩でグゲ王国遺跡をめざします。小高い山道をとぼとぼ歩いて峠を越え、平地に出たところで道がT字路に。日も暮れそうだし、川沿いに直進か、左折して谷間に向かうか、悩みます。結局直進して、川沿いで野宿。





朝になり、川で顔を洗っていると、左前方の山の上に遺跡らしきものと麓に集落(ツァパラン村?)が見えます。
あれかー!と荷物を置いて進み、麓の入り口にたどり着きます。門番の老人にお金を払い、入れてもらいます。ついに来ましたグゲ王国遺跡!登ります。
















ようやく!という達成感もあり、ふだんはやらない遺跡での記念撮影をしました。
遺跡も見たし、荷物を回収して、再び歩いて札達(ツァンダ)へ帰る道へ。今回は来た道を戻ればいいので、道がわかっています。が、私は体力がもたず(荷物が重い)、遅れがち。Y野さんが先行して、私は夜中に札達(ツァンダ)の宿にヘロヘロでたどり着きました。
アリへ戻る
宿では、カイラス山を回ってきたT川さんと再会。トラックをチャーターした(!)日本人カメラマンに乗せてもらって来たとのこと。撮影助手をする条件で私たちも乗せてもらい、アリ阿里に戻ります。Y野さんは途中下車してカイラス山へ。T川さんはプランから国境を越えネパール入りしてムスタンをめざすとのこと。


グゲ王国遺跡まで行けて満足し、カイラス山はもういいやという私はアリでビザを再延長してもらい、ネパールをめざすことに。新疆ルートで葉城・カシュガルに出ても、クンジェラブ峠は雪で閉鎖される季節なので無理。いったんシガツェへ戻って正規ルートでネパールへ出ようと考えます。アリも寒くなり、宿の部屋の石炭ストーブの石炭がなくなったので、とある場所(外に山積みになっているけど怖い場所)へ行って、少し失敬してきて、暖を取ります。
アリ→シガツェ (苦あれば楽ありトラックヒッチ)
アリで北ルートでシガツェ方面へ向かうトラックと交渉成立。四川から出稼ぎ?に来て四川に帰る漢族男衆がいっしょです。出発後、トラックは運転手が交代しながら夜通し走ります。途中のチェックポイントで入境許可証とパスポートを見せているのを四川男衆に見られ、漢族運ちゃんもいっしょになって、外国人ならもっと金払えとか、険悪な雰囲気に。列車の硬座より辛いトラックの荷台で割増料金は嫌だと、こちらも突っぱねます。夜が明けて昼近くに途中の道班で私だけ降ろされるはめに。
道班に住んでいるチベタンに事情を話して、別のトラックが通るのを待つことにします。その日はトラックが通っても、ダメダメと手を振って通過。道班の納屋に泊めてもらいます。夜にはトゥクパ?(乾麺を煮ただけ)を作ってくれて、ありがたく頂いたのですが、どうも体調がすぐれません。シュラフで納屋の床に寝ていたのですが、夜中にゲロ吐いて(幸いシュラフの外、床の上)、苦しみながら朝を待ちました。ひょっとして高山病か?翌日は体力の回復を待ちながら、道端でトラック待ち。道班の人たちは、耕運機(拖拉机トラジ)にレーキを付けて道路をならしに出かけます。こんな所に住んで道班の生活って大変だなぁと思いつつ、太陽の動きに合わせて日向ぼっこの場所を変えながらトラックを待ちます。
今日もトラックだめかなあと納屋に戻って一休みしていると、道班のチベタンがトラック来たよと教えてくれました!納屋を出ると、路上には何と憧れの「五十鈴トラック」がいるではありませんか!トラック運ちゃんは陽気なチベタンで交渉成立。道班のチベタンに宿泊と食事のお礼のお金を渡し、トラックに乗り込みます。助手席に乗せてくれました、最高!運ちゃんが眠くならないよう、私が進呈した雲南タバコに火をつけて、吸いながらカタコトの中国語で会話をします。「五十鈴はいいぞー、東風はすぐ壊れる。新車の東風より古い五十鈴のほうがいい。仕事で金貯めたら、国境でトラックを売り払って、ネパール、ダライラマがいるダラムサラに行きたいねぇ」途中休憩では、干し肉(トラック内に吊るしてある)を茹でてくれて、ナイフで切って食べました。五十鈴は順調に走り続けて、シガツェ到着!苦あれば楽ありのトラックヒッチでした。
シガツェの宿で、超久しぶりのシャワー(お湯が出ますぜ!)を浴びて、ゆっくり休養していると、夜中に宿の門をガンガン叩く音がします。しばらくしてドミトリーに入ってきたのはY野さん!カイラス山を見て、アリから戻りシガツェに着いたのは夜中、さらに市場で犬に囲まれチェーンロックをぶん回しながら、宿にたどり着いたそうな(チベットでの犬の怖さは私も経験あり)。お疲れー。
後日知ったのですが、私が行ってから4年後の1998年に西チベット北ルートで日本人男性バックパッカー3人が行方不明になったとか。私たちはラッキーだったのか。
辛く思い出深い西チベットを後にして、シガツェからネパールをめざします。



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