第2回旅行(1991-1992)③

旅行

中国→パキスタン→インド→ネパール→インド→タイ→台湾

カシュガルからクンジェラブ峠を越えてパキスタンに入ります。

中国→パキスタン【クンジェラブ峠】

カシュガルからバスでタシュクルガン、さらにクンジェラブ峠を越えて、パキスタン国境の町スストへ。

パキスタン・カラコルムハイウェイ

カラコルムハイウェイをだんだん下って行きます。

パスー

スストからパスーまで下ります。日が昇るまで寒い寒い。日向ぼっこしながら、パスー氷河を眺めます。怖くて氷河を歩きませんでした。【落ちたら死ぬで】

カリマバード・フンザ

フンザの村を散歩します。ちょうどこの頃、長谷川恒男氏遭難のニュースが流れていました。(誰それ?と思いながら山を眺めておりました)。日本の中古車がかなり入っていたのですが、偶然出身地の自動車学校のロゴ入りのワゴン車発見!また、渓谷に降りて、線刻画・文字も見ます。

ギルギットを経て、いったんラーワルピンディーまで出ます。ラーワルピンディーではリカーパーミットを取って、ビールを購入して、宿で飲んでました。甘いチャイもいいけどね。

パキスタン・ペシャワール・チトラール

ペシャワール

ラーワルピンディーからペシャワールへ。キッサ・カワニバザールでカルダモンティー(甘い緑茶)を飲んだりして散策。カイバル峠まで行ってみたかったのですが、やはり無理でした。

ペシャワールからチトラール方面に向かいます。目指すはカラーシュバレー

何だか下痢気味で卵ゲップ(イオウ臭いゲップ)が出ます。ランブル鞭毛虫症(ジアルジア症)かもしれないと、薬局で虫下しを買って飲みます。

カラーシュバレー

チトラールからブンブレットへ。カラーシュ族の村に滞在します。アレキサンダー大王の軍隊の子孫という説はともかく、民族衣装が美しい。

雪で峠が通行不能になると、いったんアフガニスタンへ出て迂回するやばいルートしかなくなる(日本人はアフガン人に似ているから大丈夫?)という話だったのですが、運よく峠を越える四輪駆動のジープに乗せてもらい、ぎりぎりの時期に脱出。シャーバーズ・ガリーのアショカ王碑文などを見てから、イスラマバードへ

シャーバーズ・ガリー(アショカ王碑文)

パキスタン・イスラマバード・タキシラ・ラホール

イスラマバードの日本人宿に半分居候(オーナー家族が正月にタイへ行っている間のお留守番)。その間、ちょこっと観光とインドビザ取得。

イスラマバード・シャーファイサルモスク

とてもモダンなシャーファイサルモスク

タキシラ(シルカップ)遺跡:ガンダーラ関係

タキシラ遺跡を見学します。

この頃、日本人学生誘拐事件などが起こり、南部は危なそう(渡航危険情報も出ていました)なのでモヘンジョダロやハラッパー遺跡へ行くのは断念します。ラホール経由でインドに渡ることにします。

パキスタン・ラホール

泥棒宿で悪名高いラホールでは、サルベーションアーミー(救世軍)に宿泊。ドミトリーは満室で、屋外の庭に置かれたベッドにバックパックをワイヤーロックでくくりつけ、シュラフにもぐって寝ます【寒いよー、冬だよー】。日が昇って暖かくなってから、建物内のシャワー室で水シャワーを浴びて、庭で日向ぼっこ。

パキスタンの宿で辛かったのは以下の2つ。

  • イスラマバードツーリストキャンプ:コンクリートむき出しの部屋にゴザがあるだけ。天井の裸電球のソケットを持参の二股ソケットに付け替えて、コイルヒーターでお茶を沸かして暖を取りました
  • ラホールサルベーションアーミー:上述。

街で若い兄ちゃん二人連れと友達になり、観光案内してもらいました。年を聞いたら高校生ぐらいなので、まあ信用しました。ミナーレパキスタン、シャーリマール庭園、ラホールフォート等々を見て回ります。

そろそろパキスタンに別れを告げて陸路インドへ入ることにします。

パキスタンの印象(南部は行ってないので除く)

  • 質素で厳格な男たち:髭の下に優しさと親切が隠れている。
  • 山あり乾いた大地あり歴史あり、厳しく美しい景色。
  • 新疆よりカバブーがおいしい。けど、お酒はダメ。お酒を入手するために仏教徒だと言わないとね。
  • 髭をのばしていたし、あいさつでアッサラームアライクムと言うと、よくムスリムか聞かれました。無宗教だと答えると、それはいけない、何にしても神は一つだと諭されました。

④に続く。

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